共感に基づく援助の限界と、その乗り越え方を論じなさい
共感は、光の当たった一人を照らす一方で、その外にいる多くの人を見えなくする。私は、共感に基づく援助の限界は、援助の行き先が「必要の大きさ」ではなく「注目の大きさ」で決まってしまう点にあると考える。この限界を乗り越えるには、共感から一歩引き、理性で援助を選び直すことが必要だ。
現実の援助は、必要の大きさではなく、注目の大きさに従って集まる。2011年、東日本大震災への寄付は約6000億円にのぼり、同じ年の震災以外への個人寄付5182億円を上回った。強く報じられた苦しみに援助が集まる一方で、報じられない苦しみは取り残される。
なぜこうした偏りが生じるのか。それは、共感が、特定の誰かに焦点を当てることで初めて働く感情だからである。対象が「一人」から「多数」になると、感情は弱まる。ある実験では、感情の強さと寄付額の結びつき(相関)は、子ども1人を示したときは0.52だったが、2人を同時に示すと0.19に下がった。共感は、相手が増えるほど働かなくなるのだ。
そこで、共感で動いた気持ちを、理性で吟味し直す習慣を教育で育てることを提案する。例えば学級で、目立つ一人だけでなく、ほかに困っている人がいないかを資料から確かめる学習を行う。その目的は、援助の基準を「心が動いたか」から「誰にとって必要か」へ移すことにある。
ただし、理性だけに頼ると、援助を動かす力そのものが失われるおそれがある。数字で示された苦しみは、人の心を動かさないからだ。2004年、6万〜40万人が亡くなったとされるダルフール紛争を米国の夜のニュースが報じた時間は、1年でABCが18分、NBCが5分、CBSが3分にすぎなかった。苦しみが大きいほど、かえって関心が集まらないことさえある。だからこそ、共感を「動き出す力」、理性を「行き先を決める力」として、役割を分けて使うことが大切である。
以上から、共感を否定するのではなく、理性と組み合わせてこそ、援助は公正なものになると考える。